比叡平線の魅力

志賀越の役小角(えんのおずぬ)の祠

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(執筆者・:大木文雄)

比叡平と大峯山

 昔から旅人は関東から京都へ行こうとするとき、東海道を通って関ヶ原を越え、琵琶湖を渡り、最後に比叡山をどうしても越えなければならなかった。あるいは例えば織田信長が安土城から琵琶湖を船で渡り、京都に凱旋しようとするとき、信長にとって比叡山は障壁のようで、実にうっとうしい存在であった。比叡山は大比叡(848.3m)と四明岳(838m)の二峰からなる双耳峰の総称なのだが、面白いことに方向によって単独峰にも見えたり、双耳峰にも見えたりする。例えば南西の京都側から、あるいは反対の東の琵琶湖側から比叡山を眺めると双耳峰が重なって、単独峰に見える。そのとき比叡山は天を突きさすような鋭角の頂を持つ墨痕黒々とした山になる。それに対して南側の奈良の木津川から見える比叡山の頂きは、大きな波を打つような柔らかな女性的なふくらみを持つ双耳峰に変身する。この多様な姿を見せる変幻自在な比叡山はずっと怪異な山として人々から畏怖されてきた。
 加えて京都から見える比叡山は北東の方向にあるのだが、「北東」は、古代中国の陰陽道で「万事に忌むべき不吉な方角」と定められていて、だから鬼門にあたり、京都の公家たちは北東の方角に位置している比叡山を昔から不気味な寄り付きがたい山と見做して忌避してきたのであった。
 しかも比叡山のさらに北側の山奥には比叡山よりもさらに高い山々が聳え立っていた。1000mを越える蓬莱山(1174m)や武奈ヶ岳(1214m)。いわゆる比良山地と言われる山岳地帯である。そしてさらにその北東には、それより一層高い伊吹山(1377m)や荒島岳(1523m)が鎮座する。そしてさらにそのまた山奥には日本三霊山の一つに数えられる白山(2707m)が聳えているのだ。だから京都から北東の方角は、山また山が連なっていて、ただ比叡山だけではなく、その山奥一帯は昔から人々には人の立ち入ることのできない神秘な、この世のものとは思われない領域と考えられてきたのである。
 北東はこのような状況だというのに、一方、振り返って南西や南の方角を展望すれば、比叡山の足下には、京都の町が豊かに広がっている。そしてその遥か遠くには大阪や奈良の街並みが見え、広大な肥沃な平野が横たわっているのだ。
 ところでこの位置関係は、これから述べようとする修験者役小角の活躍した葛城山や大峰山の山岳領域に類似していることを特筆しなければならない。
 なるほど役小角の活躍した山岳領域の方角は南西で、京都から見える北東の比叡山の方向とは真逆であるが、だがしかしながら、役小角の生まれたその御所町(ごせまち)の背後には、京都の背後にある比叡山のように、葛城山(かつらぎさん、959m)が聳え立っているではないか。そしてその奥には金剛山(1125m)が控える。役小角は世俗生活を離れ、誰にも強制されず、自由なアウトサイダー、いわゆる優婆塞(うばそく)としてその山で修行生活をした。さらに役小角は山奥に足を延ばし、吉野の山、大峰山系、とりわけ山上ヶ岳(1719m)や八経ヶ岳(1915m)で修行し、吉野山から、いわゆる「熊野三千六百峰」と呼ばれる山々が連なる大峯奥駈道を自在に歩き、日本独自の宗教である修験道の開祖となるのである。

役小角(キンベル美術館)

 だから役小角の活躍の舞台は御所町や奈良の町ではなく、人の住まない山奥なのである。
 なぜ、比叡山周辺の山々と、大峰山系の山々との位置関係がこのように詳細に比較され、叙述されるのかというその意図は、次の物語の中に次第に明らかにされていくことになる。

山中町にある役小角の祠

 さて、その比叡山の丁度、中腹辺りに、山中町という簡素な集落がある。琵琶湖の大津、いわゆる昔の近江国、から比叡山の志賀峠を越えて京都の北白川荒神口、昔の山城国、までの峠越えの途中にある集落である。その山中町の入り口付近の道路わきに秘かに祠(ほこら)がひとつぽつんと置かれてある。祠のそばには白川が流れている。比叡山を源流にしているから、流れはかなり急である。白川はやがて京都の鴨川に流れ込むのだ。山城から近江へ、あるいは反対に近江から山越えして山城へ行こうとする旅人なら大抵誰でも、その祠の存在に気づかないはずはなかった。そしてその祠の前で、つかの間、足を止め、その祠に見入り、敬い両手を合わせ、黙禱し、また気持ちを新たにして旅を続けるのであった。
 それは、それは、古い古い祠であった。それはそこにある人の三倍もあろうかという大きな岩の下の部分が四角形にくり抜かれたものだった。全て石だけの祠だったが、苔が生え、青と緑と茶色に変色し、何百年も風雨にさらされ、鋭角の部分がそぎ落とされていた。祠自体は子供ぐらいの大きさだったが、道路から石段が四、五段作られていたので、祠は道から少し奥まった大人の目線ぐらいの高さにあった。分厚い石が二枚、切り妻屋根の形で四壁の上に載せられていた。中には石像があった。
 だがその石像はお地蔵様ではなかった。そうではなくて右手に三鈷杵(さんこしょ)を持ち、左手には時の経過とともに折れてしまった錫杖(しゃくじょう)を持ち、頭には帽子をかぶり、石に腰かけ、両足に高下駄をはき、膝まで素足の、それは例のあの役小角の石像だったのである。役小角とはどこにも書かれていない。にもかかわらず、両足素足の高下駄を履いた僧は、一目瞭然役小角以外には考えられないのである。膝まで素足で下駄を履いて山奥を自由に闊歩しているこの姿は既に大昔に役小角の象徴的姿にまで高められてしまっていた。
 それにしても一体何でこんな比叡の山奥に役小角の石像があるのであろうか。役小角が活躍していた大和(奈良)の葛城山から、この比叡の峠越えの道は全く隔絶した遠隔の地であるのに。

円珍座像(国宝)

 円珍は二十歳になると天台密教の奥義12年間籠山の荒行を開始する。全くの無一物として、時には断食して不眠不臥の命がけの修行生活である。口と体と心とを集中し、一心に仏と一体になる言葉(真言)を唱えて無我の境地に入るという日々の修行である。25歳の冬、円珍が座禅している眼前に金色の不動明王が姿を現す。これまで比叡山では誰も体験していない不動明王との初めての出会いである。円珍は、早速、「大峯山の修験道」を体得するために、大和の葛城山や金剛山や吉野や熊野の山々に出向くことになる。なるほど比叡山では、円珍の他誰も体験していない金色の不動明王との出会い、しかしそれは比叡山でだけのことであった。「金色の不動明王とほぼ同じ姿をした忿怒の山神、金剛蔵王権現を呼び出すことのできるのは、大和の大峯山を自由に闊歩した役小角の修験道のみである」という噂を円珍は耳にしていたからである。
 かくして円珍は実際に比叡山で出会った金色の不動明王と、役小角が大峯山で呼び出した金剛蔵王権現との類似性を確かめるために、そして二神のさらなる関連性や山岳での修行の実際について再確認するために大峯山に行き、役小角の修験道を体験するのであった。勿論、役小角はもうすでにこの世にはいない。役小角が生きていた時代はもう100年も前のことであった。
 円珍の大峯山の修験道体験は数か月にも渡った。役小角の生誕地御所町の吉祥草寺を訪ねたのは勿論の事、葛城山、金剛山にも詣でた。金剛蔵王権現立像が安置されている吉野山の蔵王堂(金峯山寺)、大和一円最高峰の八経ヶ岳、役小角が金剛蔵王権現と出会った大峯山山上ヶ岳の大峯山寺にも勿論登った。そして熊野三山、いわゆる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を訪ねるべく、役小角が歩いたと同じ大峯奥駈道を「さ~んげさんげ(懺悔懺悔)、ろっこんしょうじょう(六根清浄)」と掛け念仏を叫びながら歩いたのであった。
 吉祥草寺や蔵王堂や大峯山寺あるいは各行場では、金剛蔵王権現、あるいは金色不動明王と一体になるために加持祈祷を行った。さらに役小角が金剛蔵王権現から伝授されたという陀羅尼助丸の作り方、処方の仕方を学び、大峯山で採取した黄柏の樹皮やセンブリの根を実際煮詰めて陀羅尼助丸を作り、比叡山に持ち込んだのである。
 円珍は40歳から5年間唐に留学、主として密教を学び、帰国後、天台宗の中に密教を融合させねばならぬ、という伝教大師最澄のたっての願いを「台密」という独自の思想にまで創造・進化させた。その独創性ゆえに、彼はやがて比叡山延暦寺の第五世天台座主に勅任せられ智証大師と呼ばれることになる。
 円珍の魅力は、比叡山にはなじみのなかった役小角の修験道をその台密思想の中に取り込んだことにある。下界の町の寺に蟄居して仏の教えだけを静かに述べ伝えねばならぬ奈良時代の「僧尼令」を、役小角は厳しく拒否して、「私度僧」あるいは「優婆塞」として大峯山で修験道を創造したのであったが、そういう役小角の修験道を円珍は実際大峯山に出かけて行って追体験し、自分のものにし、比叡山の中に取り込んだのであった。円珍の役小角修験道接近によって、比叡山の天台宗は幅が大きく広がり、独自性が出てきたのである。
 さらに円珍は比叡山麓に三井寺(園城寺)を再興し、空海の真言宗密教(当山派)に対抗する天台宗密教(本山派)を打ち立てていく。

比叡山と修堅験道

 そして円珍の後輩、増誉(ぞうよ)もまた大峯山に詣でたことで知られる。増誉は役小角の修験道を大峰山で学び、それを比叡山に持ち込み、比叡山の本山派をさらに強化し、京都に役小角を祀る聖護院を建設することになる。
 ところで円珍より17歳若い相応和尚(そうおうかしょう)もまた、比叡山の延暦寺において、役小角修験道をさらに推し進めた人物であったことは特筆しておかなければならない。相応和尚も、円珍とほぼ同じ31歳の時、円珍と同様に、吉野の金峯山寺を訪ね、凡そ一年間滞在、役小角の修験道を修めた。そして比叡山に帰るや延暦寺の無動寺谷の明王堂に籠り、比叡山独自の千日回峰行を創造したのである。この千日回峰行もまた、山岳を闊歩する役小角の修験道の新しい生まれ変わりと言っても過言ではない。明王堂には相応和尚が安曇川の滝壺で出会ったと言われる不動明王の等身大の木彫りが安置された。

志賀越になぜ役小角の祠があるか

 さてさて、この物語の最初に述べた比叡山山中町にある役小角の祠の話に戻ろう。昔々、一体誰が何の目的でこの祠を作ったのであろうか。大峯山、吉野から遠く離れたこの比叡山山中町になぜ役小角の祠があるというのであろうか。これまで長々と円珍のこと、増誉のこと、相応和尚のことを、とりわけ役小角との関わりで語ってきた理由がここでやっとお分かりいただけたことであろう。そうなのだ。役小角の祠を作ったのは、円珍だったのではないだろうか。いや、もしそうでなければ彼の後輩の増誉がこの祠をつくったのではなかったか。あるいは相応和尚が作った祠かもしれない。あるいは京都の聖護院の彼らの弟子たちかもしれない。今となっては製作者が誰であるかを正確に言い当てることは至難の業である。
 いずれにしろ、比叡山の円珍や増誉や相応和尚が、比叡山という山岳の中で修行する時、どうしても考えに入れなければならなかったのは、役小角の修験道だったのである。京都以北あるいは北東にある比叡山、比良山脈、伊吹山、白山へと続く山並みは、京都の町から隔絶した領域で、下界の汚れや病気、嘘偽り、を洗い流してくれる場所だったのだが、円珍、増誉、相応たちは、そういう人里離れた場所に居ても、一昔前の奈良の都以南に広がる葛城山、金剛山、大峯山に生まれた日本山岳宗教の原点、役小角の修験道を無視するわけにはいかなかったのである。
 大峯山と比叡山が結びつくという広義の意味において、比叡山の山中町に役小角の祠が意味深く今でもひっそりと置かれているのである。 

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