宇佐山の不思議な歴史
(執筆者・:大木文雄)
はじめに
比叡山と琵琶湖は、その地一帯を自 らの領土にしようとする者たちにとっ て、天然の要塞であった。比叡山は敵の 進軍を阻む急峻な「城壁」であり、琵琶 湖自体は戦略的に広大な「堀」となったからである。
大化の改新(645年)を決行した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が中臣鎌足と共に、667年3月19日、都を大津(近江)に遷都したのもその要塞を意識したがためであった。すなわち朝鮮半島の白村江での戦い(663年)で百済・日本連合軍が、新羅・唐の連合軍に大敗した時、中大兄皇子は、敵軍が朝鮮半島から大軍を伴って、さらに日本に攻め入ってくることを恐れ、比叡山と琵琶湖という天然の要塞の特徴を持った大津に京を選んだのであった。
そして翌年、中大兄皇子は天智天皇として即位し、新政権を名実ともに、大津京で建設しようとしたのである。あるいはまた時代が過ぎ、織田信長が天下を平定しようとするとき、尾張(愛知県)出身の信長は、やがて美濃(岐阜県)に進出したが、京都へ上洛するためには、どうしても、比叡山一帯と琵琶湖周辺の、いわゆる近江の領地を征服し、美濃から京都へと繋がる街道を何の邪魔もされずに通り抜けることができるようにしておかなければならなかったのである。
事実、織田信長の生涯の後半生は、この地一帯を戦い取るために、生と死の狭間を行きつ戻りつするような、全神経を消耗させる悪戦苦闘となった。そしてやっとこの地を平定し、家臣の明智光秀に命じて、琵琶湖湖畔に坂本城を築かせ、彼をその城主にさせたのであった。
従って、天智天皇の大津京遷都といい、織田信長の近江平定といい、この二つを考えただけでも、広大な琵琶湖と峻厳な比叡山は、日本の歴史的変遷の重要な結節点となってきたと言っても過言ではないであろう。
宇佐山の不思議物語
ところで比叡山(848m)と琵琶湖 との間に、比叡山より標高は低いが、し 3かし極めて急峻な宇佐山(336m)と いう小高い山がある。なるほどこの山 は、外見的には、平凡で人々にとっては 一顧もされず、無視されるような山な のだが、しかし、この宇佐山は、歴史上 では、その時々において非常に重要な 意味を孕んだ山になってきたというこ とは不思議なことのように思われる。 いわゆる宇佐山の不思議物語である。
まだ宇佐山という名前も付けられて いなかった大昔の頃から、この山には、 小さな泉があった。泉はこの山を1/3ほど登った所にある。背後の比叡 山、あるいはこの宇佐山自体が地下に 保水していたものを湧出させていたか らである。やがてその湧水が、不思議に も、天智天皇の病気を快復させるとい う出来事を引き起こすことになった。 無名の山が、その泉を通して歴史と結 びつく瞬間である。
【此ノ泉ハ昔天智天皇此地ニ皇居ヲ 定メ給ヒシ折柄御病ニ罹ラセ給ウ時ニ 中臣ノ金ト云ウ人、此ノ井水ヲ汲ミ取 リテ差上申セシニ忽ニ御平癒アラセラ レタリ、故ニ此ノ泉ヲ「金殿井」ト云ウ】 〔「金殿井」(かねどのい)前の看板より〕
宇佐八幡宮
この泉水が天智天皇の病を癒したことによって、この名もなき山は、たちまち霊験あらたかな山になっていく。貴族も庶民も、この泉から生命力を分け与えられてきたからである。
さて、時は過ぎ、源頼義(988~1075年)がこの山と関係する。平安時代の後期、平安京(京都)の帝から陸奥一帯(福島、宮城、岩手、青森)を支配していた安部一族を平定するように命じられた河内国(大阪府)出身の源頼義は、奥州征伐に出かけ、いわゆる「前九年の役」(1051~1062年)で勝利し、京都に凱旋する。京都とその周辺の人々は、歓呼してその源頼義の雄姿を迎えた。
そして意義深いことに、源頼義は大きな仕事を成し遂げた後の晩年、剃髪し、「信海」と号し、近江国錦織郷(大津市錦織町)に定住する。そして間もなく、1065年、彼は、例の山の、「金殿井」の泉の隣に、立派な宇佐八幡宮を創建し、九州、大分の本宮宇佐八幡宮から「八幡神」を勧請する。
以後、その山は、「金殿井」の霊泉とともに「八幡神」が住まう宇佐山と呼ばれるようになった。
宇佐山城
時代が過ぎ、織田信長が臣下の森可成(もりよしなり)に命じて、1570年宇佐山の頂上に城を築城させる。
現在、宇佐山城は石垣をわずかに残すのみである。しかし実際そこに登ってみて初めて、織田信長が如何に壮大な構想をもって、宇佐山城を構築しようとしたかという、その意義深さが窺い知れるから面白い。
錦織町の宇佐八幡宮と書かれた石碑のある鳥居の入り口から宇佐八幡宮本殿のあるところまで、延々と続く上り坂を15分ほど上り詰めると、正面に木造の屋根をつけた例の「金殿井」が見えてくる。
50cm四方の小さな石堀があって、そこに湧水が今でも溜まっている。これまで天智天皇以下いろんな人たちがこの霊水を飲んで病気を癒したのかと思うと神妙な気持ちになってくる。
さて、宇佐八幡宮の本宮手前20mほどから右折してさらに山を頂上に向かって登っていく。約20分。急斜面の連続なので、ゆっくりゆっくりと亀のように進まなければ、息が切れてしまう。しかも道がつづら折れになっているのだが、それでもかなりの急斜面になっている。
宇佐山城ができていたころは、城に至る道は直登だったらしく、この急斜面を直登するのは、並大抵の脚力では無理で、昔の兵士たちは、猿や鹿のような野生動物的脚力を持っていたのではなかったかと想像して空恐ろしくなった。
城跡の石垣が見えてくると、宇佐山城跡の頂上はもうすぐだ。
三の丸の意義深さ
頂上の城跡に入り、右に折れると三の丸に至る。左に上り詰めると本丸と二の丸がある。三の丸とはいわゆる城の最前線を意味する。敵と直接戦う場面が多くなるところなのだが、宇佐山城の三の丸跡は、その典型的な役割を演じている場所のように思われる。というのも宇佐山城跡の三の丸の直下には、大津や滋賀里や坂本の町がつぶさに見えるからである。
従って1570年9月19日、敵の浅井・朝倉連合軍三万の兵が、それらの大津や滋賀里や坂本の町に迫ってきたとき、旗をなびかせながら、馬に乗ったり、走ったり、ワーッと声を出して攻めてくるのが、織田軍宇佐山城主森可成の精鋭部隊には、手に取るように見えていたに違いない。
一方、町の彼方には琵琶湖がどこまでも広がっている。三の丸から琵琶湖に浮かぶ軍船の数も動きも正確に把握できる。さらに琵琶湖対岸の遥か彼方には、森可成の主君織田信長の居城安土城がある。三の丸の精鋭部隊には、その安土城から見守られているという絶対的安心が感じられたに違いない。
そして視界を左側に転じれば、比叡山が聳えている。その比叡山の延暦寺の中で、天台宗の僧兵たちが修行生活を続けながら、信長にとって敵の浅井・朝倉軍を援護しようとしている、その動きも三の丸から逐一伺うことができたはずである。
信長の新道の建設構想
さらに面白いことに、その当時、比叡山の谷筋を、大津の滋賀里から志賀峠を越えて山中村を通り、京都へと向かう、交通の要所としての志賀峠越え街道があったのだが、織田信長は、その街道よりも、さらに支配力の高い新道を、宇佐山城の足下に建設することを森可成に命じていたのである。
その新道は、大津から錦織を通って宇佐山城のすぐ下を巻くようにして通り、峠を越え、山中村を通り、京都へ通じるというものであった。それは現代、公共交通の京阪バスも通っている、県道30号線、いわゆる山中越え道路である。
その新道なら、宇佐山城の足下にある新道ゆえに織田信長の軍勢が、自由に使え、反対に敵を通過させない、という利権があったのである。
従って、宇佐山城建設は、織田信長の「天下布武」実現への壮大な夢の一部なのであった。
宇佐山城の三の丸からの展望は、信長の壮大な夢の実現を可能ならしめる大パノラマに他ならない。その展望は、歴史と結びつくと、まるで名人の打つ囲碁や将棋の盤面の世界を彷彿とさせるかのようだ。
県道30号線と新道の比較
下段上の地図は現代の宇佐山近郊の地図である。鋲が打ってあるのは、「県道30号線」(山中越え)であり、左の鋲から順番に①「志賀峠越え」の別れ②比叡平団地入口(ファミリーマート)③比叡平小学校北側④田ノ谷峠(ドライブウエイ入口)⑤山中越えから少し外れた尾根筋⑥墓地入口⑦宇佐山の裾野道⑧⑨南志賀村である。
下段下の地図は昔の宇佐山近郊の地図である。いわゆる信長の作った「新道」が記されてある。
この二つの新旧地図を比較すると、信長が森可成に命じて作った「新道」が、現在も「県道30号線」として使われていることが分かる。
「県道30号線」は、大津と京都を結ぶ重要な幹線道路になっていて、ひっきりなしに車が通っている。勿論、公共交通としての京阪バス路線にもなっている。
一方、大昔からあった「志賀越え街道」は現在では完全に廃れて、旧道に関心を持つ者のみが通る、いわゆる忘れ去られた街道になり果ててしまっている。
織田信長の新道構想が、現在でも大いに活躍しているという事実は、意味深い。
宇佐山の麓に近江神宮を建設
天智天皇を祀る近江神宮が、宇佐山の麓に創建されたのは、1940年であった。神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を記念として造られた。
かくして、一見何の変哲もなかった、たかが標高336mの山が、独創的な人間たちの手によって、歴史の中に宇佐山として刻み込まれることになった。今では知る人ぞ知る人類の貴重な遺産なのではあるまいか。