比叡平線の魅力

沿線上の修験者「役小角」の魅力

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(執筆者・:大木文雄)

はじめに

 京阪バスの【三条京阪前】始発のバス停から終点の【比叡平】停留所までの間に、そして始発の【比叡平】停留所から終点の【大津駅】バス停までの間に、修験者「役小角」に関係する歴史的貴重な遺産の数々が、ほとんど人知れずにひっそりと存在している。なぜ比叡平沿線上に、修験者「役小角」の歴史的遺産がこれほど多く隠れ潜んでいるのであろうか。
 筆者の調べる限り、具体的には以下に述べる8つが、京阪バス沿線上に現れる「役小角」である。①聖護院、②乗願院、③身代り不動堂、④不動院、⑤山中町の祠、⑥滋賀里の見世行者堂、⑦三井寺の行者堂、そして⑧京都祇園祭山鉾巡業「役行者山」である。
 ところで以前筆者は、なぜ山中町に「役小角」の祠があるのかを、エッセイ風に書いたことがある。それも参考にしていただければ幸いである。(志賀越の役小角(えんのおずぬ)の祠

 さて、以下、【三条京阪前】から【比叡平前】へ、【比叡平前】から【大津京前】、あるいは【大津駅前】までの間にある一連の修験者「役小角」の歴史的遺産を紹介すれば次のようになる。

①【三条京阪比叡平線】
 「熊野神社前」下車。徒歩10分。
 本山修験宗総本山聖護院は、役小角の修験道の総本山である。

 本山修験宗総本山 聖護院
 聖護院 – Wikipedia
 役行者霊蹟札所Wikipedia

聖護院の役小角

②【三条京阪比叡平線】
 「北白川仕伏町前」下車。徒歩1分。
 乗願院。入口右側の「役小角」の石像あり。

 願院,Jogan-in Temple “Kyotofukoh”

乗願院の役小角

③【三条京阪比叡平線】
 「地蔵谷前」下車。徒歩2分。
 身代り不動堂の中に「役小角」の石像あり。

 【北白川 身代り不動尊】(きたしらかわみがわりふどうそん)京都市左京区地蔵谷町  – kazu2000のブログ / 社寺仏閣巡り (muragon.com)

身代わり不動堂の役小角

④【三条京阪比叡平線】
 「地蔵谷前」下車。正面。
 北白川不動院奥宮。「役小角」の石像多数あり。

 北白川地蔵谷不動院 | みー散歩~神社仏閣御朱印めぐり~ (ameblo.jp)

不動院の役小角(左の石像)

 しかし、北白川不動院は、真言宗醍醐寺(当山派)によって作られた建物であり、天台宗聖護院(本山派)とはある種違った意味合いを持つことは面白い。本山派と当山派の違いを概説すると次のようになる。
「修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。以後、修験道界は本山派(天台系)と当山派(真言系)に大きく二分され、並び称されるようになったが、いち早く室町時代に地方の修験を掌握し、全国的な勢力を確立したのは本山派だった。その本山派を支配したのは聖護院で、その聖護院門跡がしばしば三井寺(園城寺)長吏に任じられた。後に江戸幕府は、慶長18 年(1613 年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととし、両派に分けて競合させた。ただ本山派は聖護院を本山とし、当山派は真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山とするように、いずれも仏教教団の傘下で活動した。」
修験道 – Wikipedia

⑤【三条京阪比叡平線】
 「山中前」下車。正面。
 「役小角」の石像あり。

山中町の役小角

【大津京駅比叡平線】
 「近江神宮前」下車。徒歩15分。
 「見世行者堂」に役小角あり。

滋賀里の「志賀の大仏」から峠道を琵琶湖に向かって、二、三百メートル下ったところに「見世行者堂」という立て看板がある。やじるし、の方を見ると、そこには、小さな空地があり、石の祠がある。中央に「阿弥陀如来」左に「不動明王」右に「役小角」が置かれている。祠の前には小川が流れている。

見世の役小角

 立て看板の「見世」とは、この地域の地名であり、「店」の意で、「にぎやかにものを売るところ」。「奈良、大峰山への修行道場」と書かれているが、昔、役小角が修行していた大峰山へ、この地から多くの人々が修行に旅立ったことを示している。「役小角」の石像の前には、小川が流れており、その水でかつては、身を清め、大峰山に旅立ったり、比叡山の山で修行をしたりしたのにちがいない。というのも、修験者にとって水は、次のような意味を持っていたからである。
 「水行場で身を清め、安全祈願を行ってから山に入るのが習わしです。修験道では、お山が仏様であり、神様です。その山に入るということは、仏様や神様の体の中に入るということ。だからこそ、自分の身を清めるのです。」修験道の祖・役行者の名水(熊野川源流天ノ川) (daiwa.com)

日本の茶栽培の発祥地

 「見世行者堂」のすぐそばに、「日本の茶栽培の発祥地」という看板が立っているところがある。そこには次のように書かれている。
 「入唐留学30年に及ぶ、僧永忠が、805年に帰国の際、茶の種を持ち帰る。崇福寺と梵釈寺の検校(宗務総長)となった永忠は、寺域周辺に茶畑を開き、茶が程よく生育した815年、嵯峨天皇唐崎行幸の折、天皇に茶を煎じて献じた。これが我が国における茶の接待の初めという。この付近はその所縁の茶園の名残りであ。」
 はるか遠くに見えるのは琵琶湖である。

⑦【大津駅↔比叡平線】
 「三井寺前」下車。徒歩5分。
 「三井寺・行者堂」に役小角の石像等あり。
 三井寺>教義の紹介>修験道 (shiga-miidera.or.jp)
 三井寺 行者堂: 奈良、時々京都 (seesaa.net)

三井寺行者堂の役小角

⑧祇園祭の山鉾巡行「役行者山」
 この山鉾巡業を中心的に行っているのは、本山修行総本山聖護院門跡である。三井寺もそれと密接な関りを持っている。役行者山 – Wikipedia

中央に役小角

 以上、京阪バス沿線上にある八例の「役小角」の像を検証してきたが、それらの石像を制作してきたのは、本山派修験道の人たちである。本山派は、智証大師(円珍、814~891)によって打ち立てられ、三井寺で再興された。その後、円珍の後輩である増誉(1032~1116)が、白川上皇の熊野山臨幸の先達となり、初めて熊野三山検校職に補された。これが聖護院開創の契機となった。その後増誉は、熊野権現を白川に勧請する。勿論、役小角は、熊野権現(不動明王)を呼び出すことのできた修験者であったから、不動明王と役小角は、切っても切り離せない関係にあった。だから不動明王像の隣にはいつも必ず役小角が鎮座しているのである。従って、京阪バス沿線上にある、「役小角」は、ほとんど本山派修験道の人たちによって作られ設置されたのは間違いないことである。
 聖護院門跡は、京都の洛外、白川と呼ばれる地に所在した。そこは、旧志賀街道、志賀越えの出発点・到着点でもあった。多くの旅人は、ここを通って京都に来たであろうし、ここを通って大峰山へ修行に出かけたのであろう。あるいは参勤交代で大名は江戸に向かったであろう。等々。その意味において京阪バス沿線に「役小角」が岩の上に鎮座しているのは何と面白いことであろうか。
 京都の洛外の白川村には、白幽子も、白隠も、富岡鉄斎、尾形乾山も多数の文化人が生活していた。乗願院も関係が深い。志賀峠を越えた滋賀里の見世行者堂もそれと関りを持つと思われる。
 そして三井寺行者堂。三井寺の場合は、志賀峠越えよりも、銀閣寺から大文字山に登り、如意ヶ岳を通って三井寺(園城寺)に至る「如意峠越え」が一番近い。その意味では、「如意峠越え」の出発点の銀閣寺近くの大文字山の麓に、行者堂があり、「役小角」がそこにも鎮座しているのは面白い。そして如意峠越えの丁度中間点に、池ノ谷地蔵尊がある。池ノ谷地蔵尊は、京阪バス「比叡平」バス停から歩いて10分のところにある。そして如意峠の終着点の道のそばに、三井寺行者堂があり、そこで「役小角」が錫杖(しゃくじょう)を持って、岩に腰かけて旅人を見ているのは、とても意味深いことのように思える。

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